イギリスのチャリティー・ショップ〜「慈善活動」としての音楽への示唆〜
9月末にようやく見つけたフラットに移り、こちらでの生活がいよいよ始まりましたが、日本からは最低限の服や化粧品、本などしか持参しておらず、全てイチから揃えることになりました。
そこで活用しようと思ったのですが「中古品」のお店。ただし、イギリスで中古品を買うのは、もっぱら慈善団体などが運営する「チャリティ・ショップ」が主流とのことです。実際、街のいたる所にこうした「チャリティ・ショップ」があり、食器などの日常品のほか、本や服飾などさまざまなものが売られています。しかも、実に安い!私も早速、グラスとガラス製ポットを購入しました。写真のグラスは、3つで1.49ポンド(1ポンド=160円として日本円で約238円)でした。
これらの品物は、ほとんどが寄附されたもののようです。お店で働く人々もボランティアなどが多いそうで、最低限の必要経費を引いた残りの売上金が、運営する慈善団体の活動資金などとして使われるようです。購買者としては、安く購入できる上に、慈善活動にも貢献できるということで、満足感(あくまで自己満足ですが)が得られるのが良いですね。また、逆に帰国する際に持ち帰れないものについては寄付すれば良いわけで、ゴミ(と言っても本当はまだ使えるもの)の減量にもなるので活用しない手はないと思いました。
ちなみに、こうしたチャリティ・ショップとは別に、週末などに開かれるマーケットでも時折中古品が売られていますが、こちらはいわゆる「骨董市」で、「古き良きもの」に対してそれ相応の値段がついています。
それにしても、イギリスはこうした慈善活動が盛んですね。こうした慈善活動は、当地では古くは6世紀末にまで遡るようです(注)。以前、ヘンデルの《メサイア》ゆかりの地として、捨子養育院跡地のことを書きましたが(下記)、彼のその活動も、こうした慈善活動の歴史からみることができるのではないかと思います。
https://blog.hatena.ne.jp/yumi-noto/yumi-noto.hatenadiary.com/edit?entry=4207112889919565965
また、日本では明治に入り洋楽が急速に流入し始めましたが、それを促進したものの一つに、戦争や自然災害の被害者支援と称して頻繁に開かれていた「慈善音楽会」が挙げられるのではないかと思います。日本でも救貧活動につながるものは古くからあったようですが、明治期の「慈善音楽会」の発想はアメリカから持ち込まれたのではないかと私は考えています。そのあたりについては、日本近代の洋楽受容の歴史も調査していますので、いずれきちんとまとめたいと思っています。
というわけで、日英の「慈善活動」としての音楽の歴史については、これから少しずつ調べていく予定です。
(注)Sir Stephen Bubb, "The History of British Charity" Lecture delivered at New College, Oxford, on Monday 3 July 2017
連載「イギリス探訪記」の始まり
ヴォーン・ウィリアムズ生誕150年
10月12日、イギリスの作曲家ヴォーン・ウィリアムズが生誕150年を迎えました。季刊誌『礼拝と音楽』の秋号(10月11日発売)ではこの作曲家の特集が組まれましたが、私は「ヴォーン・ウィリアムズの生涯」を書かせていただきました。
150年という節目の年となるだけに、今年はこの作曲家関連の書籍の出版や雑誌などでの特集記事が相次いで出ていますが、『礼拝と音楽』ではその性質上、宗教音楽やオルガン音楽に焦点を当てているというのが他誌にはないユニークな点ではないかと思います。讃美歌編纂などにも積極的に関わったヴォーン・ウィリアムズの一面を知る上では、とても有意義な内容になっていることと思いますので、ぜひご覧ください。
ヘンデルの《メサイア》ゆかりの地
ロンドンにあるヘンデルゆかりの地を訪ねてきました。当初は「ヘンデル・ハウス博物館」に行く予定でしたが、来春まで休館中とのことだったので、ヘンデルが繰り返し慈善コンサートを開き、《メサイア》が毎年演奏されていたという捨子養育院の跡地へ。もちろん、当時の建物がないことはわかっていたのですが、その面影が少しでも残っていないかと確かめたかったからです。けれども、訪れてみると、設立者の思いが今なお受け継がれているということがよくわかりました。
というのも、そこは現在、子どものための公園になっていて、しかも「子ども連れでない大人は入園禁止」という標識まで出ているほどなのです(ちなみに、門の所には警備員がいて、二人の年配女性が入ろうとすると注意をしていました)。また、その周辺には子どもや青少年のための施設があり、その地に受け継がれてきた基本的な理念は250年前からほとんど変わっていないことがよくわかりました。
なお、下記の絵は、1753年時の様子。広々とした敷地や門の場所などは当時の外観を留めているようにも思います。
なお、《メサイア》も含めて音楽が演奏されていたとみられる礼拝堂については、それからほぼ半世紀後のものにはなりますが、下記のような絵がありました。
ヘンデルが生きた頃の姿はもう跡形もありませんが、この地に息づく人々の思いを知っただけでも、作曲家や作品に対する見方が少し異なってくるように思います。
なお、公園の真裏には「捨子養育院博物館」もあるようなので、次回訪れてみたいと思います。
*捨子養育院跡地へ行くには…
地下鉄Russell Square駅より東へ徒歩5分
女王崩御の報を受けて
9月8日の夕方、BBC Promsでのネゼ=セガン指揮、フィラデルフィア管弦楽団による演奏会に臨むべく、裏手にあるインペリアル・カレッジのカフェでくつろいでいたところ、お店のテレビでエリザベス女王逝去のニュースが流れているのに気づきました。急いでカフェを出て会場に向かう途中、アルバート・ホールの目の前にあるロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックの国旗がちょうど半旗にされているところに出くわしました。これが、これからさまざまな場所で目にする一連の追悼行事の始まりとなりました。
アルバート・ホールでは、係員が演奏会の中止を知らせるとともに、代わりに国歌を演奏するので良ければ見てくださいとのこと。来場者に演奏会キャンセルについて詫びながら説明するホール・スタッフの表情が、いずれも暗く沈んでいたのが印象的でした。
予定していたプログラムが見られないのは残念でしたが、もちろんこの機会を見逃すわけにはいきません。私たちは席について開演を待ちました。おそらく演奏会のキャンセルを事前に知った人は来なかったのでしょう。観客は半分にも満たない程度でしたが、定刻になると楽団員に続き、ネゼ=セガンが舞台に登場。黙祷に続いてイギリス国歌を演奏する旨を伝えました。
(写真:ネゼ=セガン指揮のもと、英国歌を立奏するフィラデルフィア管)
黙祷、国歌の演奏に続き、エルガーの《エニグマ変奏曲》より〈ニムロッド〉が静かに流れ始めました。その音色の実に美しいこと…。前の座席にいた二人連れの女性が思わず涙を拭っていたのは、その天上的な響きに心動かされただけではなく、亡き女王を想ってのことだったのでしょう。最後の一音の後、会場は束の間の静謐に満たされましたが、その後静かに拍手が沸き起こり、指揮者は「ありがとう」とだけ言い残して団員とともに退場していきました。
ホールを出ると、すでに至るところに女王のレリーフが掲げられているのが目に入りました。その後、こうしたレリーフや写真が、バス停やスーパーなど町中のあらゆる場所に掲げられているのに気づくことになります。もしこれが日本であれば居心地の悪さを感じるところですが、ここではむしろ自然なことのように思えます。それほど女王が愛されていたのか、あるいはイギリスという国の歴史がそう思わせるのかはわかりませんが。
なお、Promsは翌日もネゼ=セガンによるフィラデルフィア管の演奏会を予定していましたが、それもキャンセル。そればかりか、音楽祭最後の演目で、祝祭的かつ愛国主義的色合いの強い「ラスト・ナイト」も当然ながら中止となりました。また、ロイヤル・オペラについても、この日ばかりは中止になったようです。ただし、次週以降の演奏会については予定通り行われるとのこと。日曜日に行われるサイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団の演奏会についても予定通り開催と連絡がありました。ちょうどオール・イギリス・プログラム(メインはエルガーの第2交響曲)だったこともあり、亡き英国王への敬意を示すことにもなるということのようです。さらに、英国歌も演奏するとのことでした。
こうした一連の追悼行事は、今後しばらく続きそうです。
ロンドンでの研究/音楽鑑賞生活の始まり
9月1日より1年間、イギリスのKing's College Londonにて客員研究員をすることになりました。ロンドンに来るまで道のりは長かったですが(コロナと戦争の勃発により、予約していた飛行機の運休や変更が相次いだこと。ビザの申請から取得までに6週間もの時間がかかりギリギリのタイミングになったこと、冬物などを送る宅配便がなくなりEMSしか選択できなかったこと、その他諸々)、最終的に乗ることのできた飛行機自体は遅延もロスト・バッゲージもなく、無事に到着しました。1日には早速、私が所属することになったKing's College、Music Departmentの事務の手続きに行ってきました。
というわけで、これから約1年間は、こちらでの音楽/舞台などの簡単なレビューや研究に関することなどを中心に書いていきます。